『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』
1984年公開
監督 押井守 脚本 押井守
公開時に私は小学生低学年であり、実際にこの映画を物心ついて自分の意思で見たのは高校時代の頃である。
丁度、その頃に「うる星やつら」の再放送が行われており、中々に面白く、その面白い延長でレンタルをして鑑賞したのが初めであった。
正直、衝撃だった。
その衝撃は何か?というと、セリフ回しもキャラも特徴的、あらゆる場面に小ネタは散りばめられており、ストーリーも重そうなのに、結局、世界が変わるわけではなく、何も変わらないドタバタ日常で終わるこの神秘性。正にパーフェクトだと思うアニメーションであり、私自身の高校生活とのギャップであった。
あの衝撃・羨望は今でも忘れられず、私のバイブル、青春の1ページとなっている。
是非とも読者諸氏には一度観ていただきたい。
この度の執筆に当たり、もちろん小生も1回見てしまった。この度はストーリーを若干追いつつ、自分的ツボをご紹介しよう。
①舞台は学園祭の前日。
3年B組が翌日の学園祭に向け「純喫茶 第三帝国」の出店の為に徹夜で作業しているところから始まる。
そして特別展示のレオパルドの中で居眠りをする あたるとラムが揉めるのが第一幕。
あたるの浮気癖はいつもの事だが、「純喫茶 第三帝国」というネーミングのセンス、展示品のレオパルド、抑圧する教師と対立する生徒から学生運動チックにも見えてしまう。
②終わらない「学園祭の前日」のループに気づき、桜先生に訴える温泉マーク。
この時に温泉マークと桜先生が話している喫茶店がまた印象的で美しく「純喫茶」を感じさせる出で立ちだ。
③温泉マークと桜の計らいで連日泊まり込みの学校を追い出される一向。温泉マークと待ち合わせの為、学校に向かう桜と黒幕の「夢邪鬼」との出会い。そして温泉マーク失踪。
その無邪気のセリフをご紹介しよう。
「なまじ客観的な時間やら空間やら考えるさかいややこしい事になるんちゃいまっか。帯に短し待つ身に長し言いますやろがな。時間なんちゅうもんはあんた、人間の自分の意識の産物なんや思たらええのや。世界中に人間が一人もおらなんだら時計やカレンダーに何の意味があるっちゅうねん。過去から未来へきちんと行儀よう流れとる時間なんて始めからないのんちゃいまっかいなあ、お客さん。
人間それ自体がええかげんなもんなんやから時間がええかげんなんも当たり前や。 きっちりしとったらそれこそ異常でっせ。確かなのはこうして流れる現在だけ。 そう思えたらええのんちがいまっか?」
当時でも今でも「そうだな」と思わせる理論、自分の考え方にない衝撃。深い文章だなと今でも思わせる。
また、独特な昔の言い回しでロハという言葉が出るのだが、大正時代から昭和初期に流行った言葉でタダ(無料)という意味だそうだ。このような部分を見つけるのも楽しみの一つ。
④「事の中心は友引高校に有り」との事で、夜の友引高校に突撃するも逃げ帰り、緊急脱出用のハリアーで脱出するも大きな亀の上に友引町が乗っており、失踪した人物たちが石造になり支えているのであった。
お好み焼き屋「ジパング」 立ち食いそば屋「マッハ軒」、うる星やつらではお馴染みの店の登場でホッとしてしまう。
⑤その後、諸星家に居候し、また普段のように学校に行くも、友引高校を中心に何故か廃墟になる。
おそらく他者もそうだろうが、小生が最も好きなシーンがここで語られる。
「私の名はメガネ。かつては友引高校に通う平凡な一高校生であり、退屈な日常と戦い続ける下駄履きの生活者であった。
だが、あの夜、ハリアーのコックピットから目撃したあの衝撃の光景が私の運命を大きく変えてしまった。ハリアーであたるの家に強行着陸したその翌日から、世界はまるで開き直ったかのごとくその装いを変えてしまったのだ。
いつもと同じ町、いつもと同じ角店、いつもと同じ公園。だが、なにかが違う。路上からは行き来する車の影が消え、建売住宅の庭先にピアノの音もとだえ、牛丼屋のカウンターであわただしく食事をする人の姿もない。この町に、いやこの世界に我々だけを残し、あの懐かしい人々は突然姿を消してしまったのだ。
数日を経ずして荒廃という名のときが駆け抜けていった。かくも静かな、かくもあっけない終末をいったい誰が予想しえたであろう。人類が過去数千年にわたり営々として築いた文明とともに、西暦は終わった。しかし、残された我々にとって終末は新たなるはじまりにすぎない。世界が終わりを告げたその日から、我々の生き延びるための戦いの日々が始まったのである。
奇妙なことに、あたるの家近くのコンビニエンスストアは、押し寄せる荒廃をものともせず、その勇姿をとどめ、食料品、日用雑貨等の豊富なストックを誇っていた。そして更に奇妙なことに、あたるの家には電気もガスも水道も依然として供給され続け、驚くべきことに新聞すら配達されてくるのである。当然我々は、人類の存続という大義名分のもとにあたるの家をその生活の拠点と定めた。しかし何故かサクラ先生は早々と牛丼屋「はらたま」をオープンして、自活を宣言。続いて竜之介親子、学校跡に浜茶屋をオープン。そして面堂は、日がな一日戦車を乗り回し、おそらく欲求不満の解消であろう、ときおり発砲を繰り返している。何が不満なのか知らんが、実に可愛くない。あの運命の夜からどれ程の歳月が流れたのか。しかし今、我々の築きつつあるこの世界に時計もカレンダーも無用だ。我々は、衣食住を保証されたサバイバルを生き抜き、かつて今までいかなる先達たちも実現し得なかった地上の楽園を、あの永遠のシャングリラを実現するだろう。ああ、選ばれし者の恍惚と不安、共に我にあり。人類の未来がひとえに我々の双肩にかかってあることを認識するとき、めまいにも似た感動を禁じ得ない。
メガネ著 友引前史第1巻 終末を越えて 序説第3章より抜粋」
↑これ言える??高校生がこれ言える??当時、アニメの世界とは言えメガネとの人間レベルの違いに愕然とした文言だった。とりあえず少しでも近づきたくこのセリフを暗記したのは小生の黒歴史になっている。
⑥無邪気VS面倒&桜
あたるが時間を守れず、手紙をもらった瞬間に待ち合わせへ向かった事は笑ってしまった。
面倒と桜が真相に気付き始め、偽あたるを呼び出し決闘に。無邪気に隙を突かれ夢の中に。
⑦あたるVS無邪気
様々な夢へあたるを誘い込み戦う。
コールドスリープの話は中々に切なかったが、500年ローンというオチもまた一興。
⑧帰還
そして、最後にラムの名を呼び現実に帰還。何も変わらない、何も変わっていない、いつも通りの現実、日常への帰還。これだけの冒険をしてきたのにも関わらず、ただただいつも通りな日常に美学を感じる。
まだまだ語り足りないが、押井守監督の最高傑作の一本、緻密な脚本、魅力的なキャラクター、書き込まれた絵、今では大御所の声優たち。是非、一度見てほしい。特に週末の夜中に。